どうして痴漢された話は「自慢話」になるの?
インターネットで痴漢された話をすると、自慢だと言われるそうです。
いったいどうしてそうなるのでしょうか?
あとハンガーって、捨ててないのになんで減っていくのでしょうか?
<登場人物>
エリコちゃん
相槌を打ったり話を聞き逃したりするOL。
ミカ先輩
日和見主義でどっちつかずの態度を取ることが多い先輩社員。
アニメに出てくる目がキラキラした老人
かわいい女の子の描き方で描かれたので、かわいくなった老人。
エリコちゃんミカ先輩こんにちは、いつも楽しく拝見しております。私は最近
インターネットでとてもストレスに感じていることがあります。それは、痴漢
被害に遭った女性やその告白に対する男性全般の「露出度の高い服を着ている
女性の方が悪い」という自己責任論的な意見や、勇気を持って告白しても「や
れやれ、痴漢されるほど魅力がある自慢かね」と茶化されるような風潮です。
言うまでもなく、痴漢されるのは嫌なことです。なのに、どうして「つらかった
ね」「悲しかったね」というような当たり前の反応がないのでしょうか。
男性は、あまねく痴漢とその仲間しかいないということでしょうか?
(東京都・キヨミさん)
あとは原発と安保法案と戦争と人種差別とナショナリズムと靖国参拝についての質問が来てますね。
ネットで性の話は難しい?
とはいったものの、私は男じゃないから男の気持ちなんてわからないし、ましてや痴漢のことなんてまったくわからないのよね。
それに、これはヤバい人バイアスの回で言ったことだけど…。
異なる二勢力の間でたとえ50%ずつ譲歩した
完璧に平等な結論を出したとしても…。
「100%味方じゃないから敵」というふうに、両サイドに所属する
一切譲歩する気のない人からバッシングされるのがオチなんだよね…。
そして、一部の極端な人の過剰な攻撃や防衛の応酬の結果、こじれにこじれたのが昨今の対立構造のある問題たちね。
私は八方美人だから女の子にも好かれたいし、なおかつ男にもモテたい。
だから、この件は「性というくくりには関係ないもの」
として最後まで扱うから我慢してね。
自己責任論はどうして起こる?
ネットでは、「痴漢に合うような服を着るのが悪い」だけじゃなくいろいろな、ちょっと無理矢理な自己責任論があるわね。
たとえば海外で犯罪に遭えば「そんな危ないところに行くのが悪い」
災害に見舞われれば「分かっててそんなところに住むのが悪い」…。
肛門に異物を入れて緊急搬送された人に
「そんなもの入れるのが悪い」とかですね。
予期できないことやその人に責任のないどうしようもないことまで、なぜかその人の責任と位置づけられ、勝ち誇るネット民…。
この自己責任論が発生する構図には、「ストレスの隔離」という目的があるのではないかと専門家の間では囁かれているわ。
す、ストレスの隔離!!??????
たとえば「何もしてないのに殴られた」と言ってる人が
いたらあなたはどう思う? かわいそう、同情する、
共感してしまってつらい、助けてあげたい…。
こういうふうに、ひどい目に遭ったり理不尽な目に遭った人に共感したり同情するのは、それ自体心に負担がかかることなの。
自分に何かしてあげられないのか? もし被害に遭ったのが自分だったら? そんな理不尽なことが許されていいのか?
このときに生まれた悲しみ、恐怖、怒りといった感情はごった煮にされて「なんか嫌」という感じで処理される。
その「なんか嫌」を解消するために人はどういう手段を取るかというと…。
「殴られた側」という、共感すると心理的に負担がかかる対象から距離を取るために、あえてそれを批判する側に回るの。
かわいそうな人に共感するのには負担がかかるから、共感しないために悪いやつになるんですね。
罪悪感・加担型のストレス隔離
災害や理不尽な目に遭った人に対しての自己責任論は、単純に「不幸な人に共感すると疲れる」という理由や…。
それから、「嫌な目に遭った人には何らかの過失があるべき」という理不尽の多いこの世界に対する希望的観測があるね。
でも、受け手の加担や罪悪感を想起させる問題に対しての自己責任論は、もっと激しく批判的なものになる。
権利の関係でこの再現が限界なんだけど、なんのことだかわかる?
私が出てるのは別として、スーダンの飢餓の村で撮られたハゲワシと少女の写真ですかね。
この写真がどうしたんですか?
このセンセーショナルな写真はピューリッツァー賞を受賞し、スーダンの現状とセットで瞬く間に世界中に広がった。
それ自体は問題提起として成功だったかもしれないけれど、そこから大バッシングが始まったの。
つまり、「写真を取っている暇があったらなぜ助けないのか」というふうに世界中から批判が集まったの。
(たしかに、ハゲワシは私たちが心配しなくてもたくましく生きていけるからなあ…)
でも実際は、女の子がハゲワシに襲われる危険はそれほどなかったと言われているわ。
だいいちに、この写真は少女の母親が配給を受け取るために少女から離れた少しの隙に取ったものなの。
景色を引くと周りには人がいるし、ハゲワシはたまたま少女の奥のほうに留まっただけだった。
第二に、ハゲワシは生きている人間を襲うような鳥じゃないのよね。
知ってます。死体に頭を突っ込んで食べるためにハゲたのがハゲワシなんですよね。
この部分に関しては、「そういうふうに見える撮り方」という写真自体の演出が仇にもなった部分もあるの。
結局、飢餓という真実を世界に伝えることもできたはできたけど、写真家は世界中から大バッシングを受けた。
そしてピューリッツァー賞の受賞から三か月後、車の中から彼の死体が発見された。自殺だったの。
それはわからない。わからないけど彼、すごいドラッグやってたらしいよ。
問題提起とストレス
つまり、写真家は飢餓というありのままの現状を写真に収め、世界に発信することに成功した。だけど問題になり、バッシングを受けたのは飢餓だけでなく問題提起した彼自身でもあった。
これが「ストレスの隔離」と関係があるということですか?
そう。
理不尽、不幸、トラブル、この世には問題が山積みね。
だけど、そういう問題に耳を傾けるには受け手の体力がいる。
心の余裕のない人が飢餓の写真を見たらどう思うか?「あなたがのうのうと生きている間に裏では人が死んでいる」…。
そういった、罪悪感をかき立てるようなメッセージにも映るかもしれないわね。
そして、その悲しみ、罪悪感、恐怖などがごっちゃになったときにどうするか…。
批判をする?
でも、どうして「飢餓」でも「ハゲワシ」でもなく写真家がバッシングを受けることになったんですか?
ここに「問題提起する」ということ自体の難しさがある。実際、憎むべきは飢餓のはず。
でも人はしばしば、そういったややこしく解決しづらい問題より、わかりやすい登場人物を叩くことを選ぶの。
特に、問題提起者は、目を背けたい惨状を自分に見せてストレスを与えた直接の原因である以上、恨まれやすい。
飢餓を痴漢に置き換えれば、憎むべきは痴漢という行為…のはずなんだけど当の痴漢はインターネットにいない。
だから、代理として唯一の登場人物である問題提起者に悪意が向く、というのことも考えられるわね。
痴漢の話がどうして自慢?
自分に起こったつらいことや悲しいことに関する話に対して「不幸自慢」と煽る人は昔からいるよね。
要するにあれは、単に「聞きたくないです。」という拒否反応をしているんだと思う。
悲しいニュースを見るだけでも、悲しい気持ちになりますもんね。
誰にどういうことが起きて、どう苦しんでいるかということを知りたがらない人は多い。つらくなるからね。
もちろん、他人の悲しい話を聞かない権利はみんなにあるから、いいから聞けと押し付けることはできないわ。
でも、そうは言っても悲しいことや辛いことに目を向けなければ、状況を改善することはできない。
大事なのは、話を聞いてほしい人の気持ちも、聞きたくない人の気持ちも尊重してあげることだよ。
ふっふっふ、ずいぶんと賢くなったようじゃの…。
アニメに出てくる目がキラキラした老人!
ワシはアニメに出てくる目がキラキラした老人。かわいい女の子の描き方で描かれた老人といういびつな存在…。
君たちはヘドロのように腐敗したインターネットの中から欠片ほどの善意を見つけようと努力した。
そこで見たものが真実であろうが虚構だろうが、人を信じようとした君たちを笑うものはあるまいて…。
タフな時代には真実か嘘かなんて関係ない…。
信じる価値のあることだけを信じていくわ。
ミカ先輩…。
アニメに出てくる目がキラキラした老人…。
へへ…。
あんたたち…最高の
兄弟<ダチ>だぜ…。
うふふ…。
あはは…。
(おわり)