人は生まれてきた時、誰しも「裸」である。しかし、服を着て、段々と裸を遠ざけようとする。「裸であることはいけないこと」という世間の認識がそうさせるのだ。
今日も1日とても楽しかった♡
海めちゃ綺麗だった〜♡
明日は木村家で大磯ロングビーチ♡ http://t.co/cJzGCr7bi0
— ゆきぽよ(Yuki Kimura) (@poyo_ngy) 2015年8月12日
しかし、人は裸になりたがる。夏になると海やプールに行くのも裸になるためだ。そう、人は裸になりたいのだ。
海やプール以外で裸になれるチャンスは少ない。「家で裸になればいいではないか」と思う少数派もいるだろう。違うのだ。私は外で裸になりたい。開放感、それがポイントなのだ。
街中で裸になれば、どうしても浮いてしまう。周りから変な目で見られることは間違いないだろう。皆、裸になりたいのに、自分以外が裸になると人は冷たい視線を送る。
しかし、世界は広い。海やプールでなくても裸が許される楽園が存在するのだ。
ヤシの木があれば裸が許される。上記の写真を見て欲しい。裸であることが不自然に感じない。人は長い歴史の中でヤシの木があれば裸が許される、とDNAに刻まれてきたのだ。
ヤシの木は探せば都内のいろいろなところにある。そこに行けば、外でも裸が許されるのだ。裸になりたいと自分の欲望を抑えられなくなれば、ヤシの木のある場所にいけばいい。それが答えだ。
ヤシの木であることがポイントだ。そうでない木の前で裸になればやはり浮いてしまう。家を追い出された人にも見える。木であれば何でもいいのではなく、ヤシの木である必要がある。これを全人類に覚えておいていただきたい。
もちろんヤシの木以外にも裸が許される場所はある。それは草原だ。海の見える草原で横になる。南国に旅行に行けば誰もがやることだろう。裸が許される場面である。草原では裸が許されるのだ。
草原なんて身近にないので、駅の近くの芝生で裸になった。おかしなことをしていることは知っているが、写真を見れば全然不自然ではない。
ひまわり畑もまた裸が許される場所だ。むしろ裸でないのが不自然に感じるほどだろう。人は裸になり、ひまわり畑を訪れるのだ。ひまわりを見たら、裸にならないといけない。そう言っても過言ではないだろう。
もっともひまわり畑なんて身近にないので、このような場所で撮影した。しかし、これは正しいのだ。先にも書いた様にひまわりを見たら裸にならないといけないので、なんの不思議もないの。私はポジティブに生きることにしている。
アメリカの国旗の前でもやはり裸は問題ない。写真を見てもわかる様になんの疑問も浮かばない。アメリカは自由の国であり、自由とは裸のことなので、これが正しいのだ。
街中にたまたまアメリカの国旗があったので、裸になった。確かに遠くから見ると、おかしいな、と感じるかもしれない。ただアップの写真を見れば、裸が似合う。そういうことなのだ。どういうことなの? と疑問を感じたら負けなのだ。あきらめたらゲームセットなのだ。
ハイビスカスと一緒に撮影。もはや裸でない理由がない。南国ではみな裸で、ハイビスカスを耳に当て写真を撮るのだ。これが世界の常識なのだ。グローバルスタンダード。
歩道である。花いっぱい運動なのか歩道にハイビスカスがあった。つまり裸になっても問題ない。裸になってダメならば、なぜハイビスカスを植えたのか? そう、歩道が裸を求めているのだ。それに答えるのが人類の務めだ。
実はアイテムが重要なのかもしれない。レイにサングラスをつければ、どこで裸になっても許されるのではないだろうか。お恥ずかしいことに今までの私は背景にこだわり過ぎていた。この2つのアイテムさえあれば、どこでも裸でいいのかもしれない。
疑問を感じたら負けだ。いや、でも許されている。確かに背景は日常だけれど、裸の私は非日常すぎて許されている。
周りの人も私を見ていなかった。それは私が自然で不思議を感じなかったからだ。プラス思考が裸を生むのである。
上記のアイテムがない時にふと裸になりたいという時もあるだろう。また先に書いた背景の場所もなければ、我々は涙を飲んで裸を断念しなければならない。しかし、大丈夫だ。神様は裸を見捨てない。
細い飲屋街を走っていると裸でも許される感じがする。ストーリーを感じるのだ。ぜひ裸になりたくなったら飲み屋街に行って欲しい。そこは裸が許されるオアシスなのだ。
ちなみにこれは休暇を利用して訪れた石垣島。石垣島もまた裸が許される地であるのだ。
本当はただの空き地だけど。
(おわり)